浅井長政


浅井長政について

浅井長政は3代目浅井家当主。織田信長の義兄弟であり妻は信長の妹であるお市の方。
父親の隠居後、15歳という若さで家督を継いだ。
村の祭りを行うため社殿の修築や寄付を行ったり、村人たちの争い事では裁判を取り繕うなどの善政で知られる。
信長とは同盟関係であったが、信長が長政と条約を破って同盟である越前の朝倉氏に攻撃を始めたため長政は信長との同盟を破棄し、金ヶ崎にて朝倉義景と共に信長に奇襲を仕掛けるが失敗する。
その後、姉川の合戦でも織田・徳川連合軍の前に長政は敗退し居城である小谷城に撤退する。
しかし、長政は近江の村人や寺院、比叡山延暦寺などと協力して信長包囲網を形成し信長への反撃を試みる。
その結果、織田の領内で次々一揆が起こり織田軍は混乱する事になる。
しかし肝心の長政は天皇・将軍の連盟で信長との休戦命令を受け、やむなく撤退する。
その後、信長は延暦寺の焼き打ちなど時間をかけて包囲網を突き崩していく。
1573年9月に小谷城を責められ自刃する。


年表

1545年   誕生
幼名は猿夜叉丸
1560年 8月   野良田の戦いで初陣を果たす
この戦いで重臣の赤尾清綱・海北綱親・遠藤直経らを心酔させたと云われる
  10月  父親久政隠居
1563年    観音寺騒動
六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された事件
これにより多くの家臣が浅井に仕官
      六角氏、長政の美濃遠征中に軍を動かす。
これに合わせて長政も軍を反転、六角軍を撃破した。
1568年     織田信長の妹であるお市の方と結婚
信長は浅井との同盟により上洛経路を確保した。
この婚姻の費用は織田方が全額負担したとされている
  8月   信長、京へ向かう途中に長政を訪ねる
  9月   長政、信長軍と共に京へと出発
    26日 信長、長政の協力により上洛を果たす。
信長はこのころから将軍義昭を補佐し、政治・経済の改革を行うようになる。
長政は北近江へ帰国する。
1569年     茶々(後の淀殿)生誕
1570年 1月   信長から長政を家臣扱いする衆生が届く
  4月   信長が越前朝倉氏を攻めるとの報が入る
1570年 5月   金ヶ崎の戦い
信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、徳川家康と共に朝倉氏に攻撃を始める。
長政は信長よりも朝倉義景との同盟を重視し、信長へ奇襲をかける。
  6月   姉川の戦い
浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍との戦い。
この戦いで浅井は多くの家臣を失い小谷城に籠城することとなった。
  9月   長政、小谷城を出陣し信長包囲網に動き出す。
    22日 北近江の有力な寺に信長討伐への協力の通達を回す
これにより北近江の村人たちが信長軍に反乱を起こす
    24日 京都を監視するため延暦寺の協力のもと、比叡山に陣をはる
      長政、石山本願寺にも協力を要請
  10月 7日 本願寺、近畿各地に反信長の檄を飛ばす
これにより信長の治める南近江と伊勢長島で一揆が起こる
  12月   長政の元に正親町天皇からの講和の命令が下る
信長による策略と思われる
    13日 和議が成立
長政は北近江へ引き上げ小谷城に籠城
1571年 正月   信長、北近江と南近江をつなぐ港と街道を遮断
  9月 12日 信長、比叡山延暦寺を焼き打ち
僧侶たちを焼き殺す
1572年 7月 18日 信長、将軍足利義昭を京より追放
      信長が北近江に侵攻する。
朝倉義景が15,000の軍勢を率い援軍に駆けつけた。
合戦にはならず睨み合いとなった。
  9月   信玄より長政、久政親子宛に書状を送っている。
「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」
長政は北近江より織田軍を美濃に帰国させない事に全力を尽くす。これは織田軍を分散させ、武田軍の進軍を促すためである。
  12月  朝倉軍が、兵の疲労と積雪を理由に帰国。
これにより北近江に縛られていた織田軍も撤退。
1573年 2月  信玄進軍を再開し、家康領の野田城を攻め落とす。
しかし、信玄の急死により、武田軍退却。
  8月   織田軍、小谷城包囲
  9月  小谷城の戦い
  9月 26日自刃
     一乗谷城の戦い
朝倉氏滅亡

長政のライバルたち

  • 織田信長
    1962年死没 謀反により自刃

長政家臣団

  • 赤尾清綱
  • 海北綱親
  • 遠藤直経